自分の脳の仕組みがわかった
とかげ配列で、じゃらじゃら打つのが良いといいつつ、やっぱ間欠的じゃダメなのかなぁとか。
典型的な行段左右分離配列はQWERTYより遅いけれど安定して等速で打てるから良かったんだっけとか。
その辺の議論を思い出していた。
また、打鍵動画を撮るとあまりに自分の手の動き、機敏さ慌ただしさが想像と違っていてびっくりする。
さっきのとかげ配列もそうだけど、いろは坂配列はずっとそうだ。
というようなことを考えて、
なぜ私は間欠的なタイピングを好むのかようやく明らかになったので説明しよう。
グロ注意
自分にとっての文章作成はこんなだ。たぶん。
指には別の脳がある。文字を考える脳と指の脳は全く別領域だ。
また、文字は自分の体を通っていない。腕が点線なのはそういうことだ。指と脳が物理的に繋がっているということを文章作成中に意識することがない。
完全に感覚的な話なので、話半分でお願いします。
文章作成するために、まず文字や単語を思いつく。思いついた単語は外でストックされて、そこで単語同士が繋がって文になる。
ストックといっても無限ではなく、ろう斗のように常に下から染み出している。
これが数秒なのか、数十ミリ秒くらいなのかはわからない。
けれどこのおかげで脳と指の"分業"がしやすくなる。
もしこのストックがなければ脳から送られる単語は直で指に伝えられ、
イメージでいうと、タイピングを脳波と同調させなければならない。
自分が気まぐれで間欠的に思い付く単語とタイピングを同調させないといけないなんて、曲芸のようにも思える。私にはこれができないようだ。
また、指の処理能力を超える単語が送られてきたらオーバーフローし、単語が捨てられ、せっかく思いついたのに出力されず終わるという問題もありそう。
先日試した無休憩の「等速タイピング」。あれは思考速度とタイピング速度を常に同調させることで、ストックなしの条件でも不自由なく作文するためのトレーニングになるものだったのだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=2pQEVBd_9hw&t=739s
ポテンシャルでいえば変なストックなど無いほうが直接脳で文章を操れることに繋がり、文章の質は上がるだろう。
私には文字のストックがある。そのせいでおそらく文章の質は相当下がっているだろう。
ただ、ストックのおかげで指と脳それぞれがマイペースに作業できるので、
まぁさほどストレスがないようにも感じる。
たとえば、QWERTY配列やとかげ配列のように、アルペジオを積極活用する配列は速くタイピングすると間欠的になりがちだが、
指と脳はリンクしていないし、文はろう斗からぽたぽた垂れてきているだけなので、
1滴ずつタイピングしたっていいし、10滴くらい溜めてからじゃらっと打つのも自由である。さすがに溜めすぎは無理だけれど。
思考速度を超えてじゃらっと打つ事が許されるから休憩時間も多く、凝りにくいと思われる。凝りは指の速さではなく筋肉の連続緊張時間からくるものと思われるので、速く打ってたくさん休む方式のほうがリスクが少ない。ただし腱鞘炎のリスクは上がる模様。
指と脳が分離しているもうひとつの留意点として、当然だけれど脳でタイピングを制御しにくい。
指には独立した専用の脳があるとはいえ、そんな高度なことはできない。
私にとって配列を無意識化するというのは本体の脳から指の脳への移管させるということだが、
配列が高度なものだと移管できない。
そして何が高度に相当するかというと、私にとっては「シフト」である。シフトは頭使わないとできない。
私にとって最も頭使うシフトは同時打鍵である。指の脳には順序の概念はあるが、時間の概念がない。なので、意図的に同じ時間で打つのがとっても難しく感じる。
また、他のシフトであっても無連想のシフトはとてもつらい。連続シフトは小書きだけとか、半濁音だけとか、その程度が限界である。できれば単打と連想できるものが良い。
いろは坂配列のように4段でキー数多いことについては別にそんなことないみたい。キー数増やしたところでタイピングの原理は変わらず、実戦投入できるようになるまでの訓練の期間が長くなるだけだろう (シフトも慣れればいいだけなのか。。?)。
指からキーボードを介して、ようやく文章が組み上がるわけだけど、本体の脳から文章がなんと遠いことか。
創作文は洞窟探検だなんてことを前に言ってしまったけれど、そういう感覚は上記のような事情からくる。
もちろんさすがに洞窟が問題なのはなんとなくわかってきたから、特訓して自分なりに明かりをつけて先を見通せる能力をつけるべきか。。
この記事もやっつけの図を作って500字程度で説明して終わりだと想定していたら、たいそう真面目な説明から抜け出せなくなり、気づいたら2000字超えていた。。こういうのが洞窟探検だと思ってしまう。
ストックのようなものがあるから、ただでさえ気まぐれな脳が更にマイペースになって、無計画に単語を漏斗に放り込みやがるから埒があかない感ある。
脳と文章が遠いからこそ、修正もおおい。一度文章が出来上がってから日本語的な違和感を可能な限り取り除く。手書きだと消しゴムがあるとはいえさすがにそんなに修正できないけど、私はペン握るよりキーボードに向かっている時間のほうが長かったから、修正前提でしか文字入力ができないようになったのだろう。
余談だが、私はタイピング練習中にごくたまにうたた寝するが、 (精度はともかく) 指は動き続けている。
赤矢印の文字のフローがなくなっても、黄色い文のストックはあるので、多少脳が停止しても大丈夫ということか。
指と脳が分離していることを示すものかも。。しれない。
上記の図で示される例はヘンテコで特殊なようにも思えるが、
でも意外にありふれているものと想像している。
特に頭で文章を考えていることに慣れていない人は、とりあえず思考の外にストックを無意識に作るのではないだろうか。
指と脳が分離しているため、たとえ指がQWERTY配列に違和感を覚えたとしても本体の脳にそれが伝えられることはない。指も指で、ヘンテコ配列が目の前にあっても盲目的に慣れてしまう。
腱鞘炎など外的な痛みが生じたり、また勉強してQWERTYの理論上の非合理性を認識してはじめて、本体の脳がQWERTY配列をやめようと思うようになる。
というように、エセ科学にすらならない謎の論理を展開してきたわけだけれど、
でも自分の感覚的には、脳の外にストックがあるとか、指には別の脳があるのは嘘ではないと言っていて、
たぶんこれらの事柄は脳科学で説明されるべきものなんでしょうね。
-----追記-----
大岡さんが取り上げてくださいました。いつもありがとうございます。
たしかに「言う」に近いですね。
私のように書く習慣が無かった人間だと書くことが「言う」の延長線上になりがちなのかなと。
コピー打鍵では単語の出どころが本体の脳ではなく視覚情報になりますが、それ以外は同じです。まさしくゲームをしている感覚ですかね。
もっと以前の議論にあった「脳内発声が無く概念で考えている」というのはまだ想像できた。
でも
「言う時の思考と、書く時の思考が全く異なる。」
「僕にとって思考とは、その餅を変形させたり、グルグル回して裏を見たり、中に何が入ってるのか二つに割ってみたりすることだ。」
「色や触覚のような別の感覚に変換される。」
はほとんどさっぱり想像できない。。
関西弁と標準語の経緯はなるほどと思った。たしかに標準語だけで育った人には体験しえない経験ですね。。