新かな配列練習道場

~単打最多の最凶かな配列を10本指で調教しよう~

創作文は洞窟探検

素人感想ですけれども、創作文の土俵は洞窟ではないだろうか。

 

創作文には長距離タイピング技術が必要ということは大岡さんが度々話題にしてて、いつも勉強になっている。

oookaworks.seesaa.net

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長距離タイピングはマラソンに喩えたくなるが、どうもそんなもんでもない気がしている。

ラソンは決められた道を走るだけだから、この喩えは長距離コピー打鍵に相当して創作要素はほぼないと思う (そりゃマラソンも奥が深いんだとは思いますが)。

ラソンランナーの鍛錬に匹敵するタイピングトレーニングをして長距離タイパーになればプロの物書きになれるかというと、全然そんな気がしない。

 

タイピングとライティングには壁がある。タイピングに興味ある人はたくさんいるし、タイピングゲームで速く打てる事を自慢する人もたくさんいる。けれどもじゃあタイピング上手くなったからたくさん文章を書いたことを自慢する人は滅多にみない。

逆に作家やプログラマーといったいかにもキーボードはお友達と思ってそうな層ではかえってタイピストは少ない。コピー打鍵と創作打鍵にはそれだけ壁がある。

 

この壁はなんなんかなぁと単純に気になっている。

私は特にプロの物書きを目指してるわけではないが、まぁ楽にたくさん書けるようになれればそりゃ便利だよなぁと漫然と考えていて、せっかくタイピングは練習したんだし創作文を書けるようになりたい。

プロはやはりプロで、常人には想像も付かない能力を持っているんだなぁ、以上。というのでは少し退屈なので、素人ながらいろいろと考えてみる。

 

創作文のプロからみたコピー打鍵の位置づけについては大岡さんのブログに詳しい。たいへん勉強になった。

で、コピー打鍵ばかりしてきた私から見て、なぜこれほどまでタイピングゲームでの実力は実用では役に立たないのか、タイパーが創作文を興に入らないのはなぜかを考えて、創作文では制約が多すぎることに気づいた。まぁ当たり前なのだけど、整理したい。

 

 

創作文の制約には入力技術以外に大きく三つの軸がありそうで、①漢字変換②国語力③思考だと思う。これを洞窟探検に喩えてみよう。

 

前提として洞窟の中は真っ暗だし、道もわからないから探検活動は好奇心と共に恐怖にも満ちている。懐中電灯は持っているが、ちゃんと見えるのは足元だけ。うっすらと先が見えるような気もするけれど予期せぬ障害物もあるかもしれないし、そもそも足元に気を配らないと先には進めない。何も考えずに走り切るのはほぼ不可能である。道もまっすぐとは限らないし、もしかしたら分岐点もあるかもしれない。道も凸凹で、ゆっくり進むのにも体力を使う場面が多々ある。常に未知の洞窟を進んでおり、どんな道を辿ることになるかは事前にはわからない。探検が困難と判断したら途中で引き返し、下準備から見直すこともあろう。

 

転ぶといろいろ危ない。打ちどころが悪かったりどっかに落下したらゲームオーバーである。またそうでなくとも起き上がるのに体力がいるし、頭を打ったりしてたら記憶が飛ぶ。創作文的には「さっきまで何の話をしていたんだっけ?何を書こうとしてたんだっけ?」という状態になりさっきまでの道や思考内容を思い出すのに時間がかかる。

  

①漢字変換は洞窟の障害物に相当する。道が平坦じゃないのは当たり前だ。道の凸凹程度ならまだ大したものではないが、時には岩壁を登ったり降りたりしなくてはならないだろう。初心者は躓きまくるし、転倒して頭を打って記憶も飛び飛びになり、探索どころではない。

  

 ②国語力は探検の下地で、服装や装備に相当する。今までの探検の経験も含めてもいいかもしれない。国語力がない人は半袖短パンで洞窟探検をすることになり、まず凍死しそうだ。またちょっとでもそこら辺の岩に体ぶつけただけでえらい怪我になるからおそるおそる進まなければならない。国語力ある人は服装・靴・ヘルメットをしっかり準備できる人だ。

   

③思考は懐中電灯に相当する。思考力は懐中電灯の明かりの強さに相当するし、思考の方向性はどこに向かって照らすかに相当する。ふつうの人は前ばかり照らすだろうが、独創性のある人ならば常に四方八方警戒し、分岐点に気づき未開の道を見つけるかもしれない。

 

そしてタイピングは足である。たしかにタイピングが全くできなかったら歩けもしないので論外であるが、速く走れたって何の意味もない。ずばぬけた思考力があって先を見通せて、かつ先がまっすぐの道であるとわかったときだけ走れるかもしれない。ただそのくらいのシチュエーションでないと高速打鍵は役にたたないし、それでも予期せぬ分岐点を見逃す可能性があり、お宝を発見できずにありきたりな結果で終わるかもしれない。

  

懐中電灯を照らし前方を意識しながら、足元に気をつけて一歩踏み出す、という矛盾が肝かもしれない。

単純には懐中電灯を前に照らしてから進む方向を決め、次に下を照らしながら足を踏み出し、また足を止めて前方確認というのを繰り返せばいい。これはまさに間欠的タイピングで、普通の人が無意識にでもよくやっている事である。

ところがプロの物書きは基本的にそうではないらしく、あまり歩みを止めることはない。強力な懐中電灯を常にさまざまな方向に張り巡らしており、難所では足元を重点的に照らし、余力がある時に前方を照らし情報収集。。というようにして立ち止まらずに効率よく探検していそうだ。それまでに数々の洞窟を開拓してきた経験も生きるのだろう。

 

 

というイメージ。 

この記事もちょっとした洞窟探検の成果である。創作文の喩えは始めは「長距離障害物競走」だったのだがアスリート的に鍛えればいいわけじゃないからなぁと思い「暗がりの平均台」になり、平均台モデルは捨てがたいがわかりにくかったので「洞窟探検」かなぁと、書きながら内容がブレていった。創作文では書き終わるまでどんな文章になるか分からないからやはり探検なのだろう。

ただし私には洞窟探検の専門知識がないわけであり、軽装備で間欠的な歩みで時間かけて掘り進めないといけない。こんなたかだか2000字の記事でも2時間はかかってる。

 

タイピングゲームはただの徒競走であり、足さえあれば制約は一切ない。

漢字変換有りのコピー打鍵では既に調査済みで至る所に明かりが灯されている洞窟だろうか。ただの障害物競走ともいえる。

タイパー活動の土俵はゲームである。速く走れるのはかっこいいから、走ることが目的なのである。その上でわざわざ洞窟に走りに行く人はいないよね。。

  

洞窟探検には日頃から足腰を鍛えてないといけないけど、それはアスリートの体の鍛え方とはまた違うものだろう。歩く速度で洞窟探検ができたら上出来すぎで、ふつうはよちよち歩きかハイハイレベルの歩みしかできないはず。それでも平坦な道を歩いただけの時とは比にもならない疲労が伴うだろう。書く事に慣れてない人が200字の自己PRかなんかを考えようとするとものすごい時間かかるし頭も疲れるよね。

洞窟自体にもいろいろと分類があって、たとえばブログだったらほら穴レベル。メールはそれ以下。SNSなんて脳内で文を作ってからアプリ起動するのだからただの一本道(=コピー打鍵)だ。一方で小説では(書いたことないが) 険しくはないが規模が大きいイメージ。論文だと洞窟自体は大きくないが難所だらけで、実際A4数ページに一ヶ月以上かけるのが普通である。

 

 

洞窟っていうと既存で数が限られているような印象があるが、ここでの洞窟は自分の深層意識が作ったものだろう。誰しもがいくつもの洞窟を脳内に持っており、それを掘り進めるのがライティングっぽいと思った